<開式の祈り>
私たちを造り、あがない、また、慰めてくださる主なる神よ。私たちは、今、あなたの聖言(みことば)を聞き、あなたを礼拝するために、み前におります。どうぞ、聖霊によって私たちの心を開き、また、聖言(みことば)によって私たちを教え、私たちが罪を捨てて、終始、主イエスを信じ、恵みと聖(きよ)さのうちに、日毎(ひごと)に成長することができますように、今、助け、導いてください。主イエス・キリストによって、お祈りいたします。アーメン。
<讃 美 歌> 教会讃美歌294番 https://reihaidouga.blogspot.com ← 讃美歌BGM動画をご覧いただけます。
<罪の告白>
あわれみ深い父なる神よ、生まれながらに罪深い私たちは、してはならないことをし、しなければならないことをせず、思いと、言葉と、行いとによって、あなたの御心(みこころ)に背(そむ)き、多くの罪を犯しています。
ここに私たちは、心から悔い改め、これらの罪を悲しんで、御前に懴悔(ざんげ)いたし、主イエス・キリストによって、あなたの恵みを慕(した)い求めます。主よ、あなたの限りない憐れみを、私たちの隠れ家とさせてください。
恵みと愛に富みたもう神よ。あなたは、私たちのために、ひとり子を与え、その十字架の死をさえ、惜(お)しまれなかったほどに、私たち
を愛してくださいました。どうぞ、み子のゆえに、私たちをあわれみ、すべての罪をお赦(ゆる)しください。また、聖霊によって、み姿と、み旨(むね)とに対する真実(まこと)の知識に富ませ、つねに真心より聖言(みことば)に従わせ、限りない生命(いのち)に入らせるために、私たちを、お恵みください。主イエス・キリストによって、お願いいたします。アーメン。
<恵みの言> 罪の赦しの宣言
天の父である、全能の神は、私たちをあわれみ、私たちの身代わりとして、そのひとり子を死に渡され、これによって私たちのすべての罪を赦(ゆる)してくださいました。主は、聖名(みな)を信じる者に、神の子となる力を与え、聖霊を注がれます。ゆえに、信じて洗礼を受ける者は救われます。アーメン。
<聖 書> エフェソの信徒への手紙4章1〜16節
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
<説 教>「神に招かれた者たち」杉岡直樹
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その時代、その時代の流行というものや、人々がどういうことに関心を持っているか、ということは、何を見れば分かるでしょうか。ある人は、テレビではないかと思うのではないでしょうか?確かにテレビのコマーシャルを見ていれば、どういったものが売れていて、どういったものが、人々の間で人気があるかというようなことは分かります。しかし、テレビで紹介されるものというのは、ほとんどが物質的なものです。携帯電話、ゲーム、車、化粧品、飲食店、衣類など、すべては、目に見えて人々の物欲を刺激するものばかりです。
しかし、その時代の人々が何を自分の問題として精神的な面で関心を寄せているのかを知る手がかりは、どこにあるかと言えば、ひとつは、本屋さんにあります。今では街の本屋さんというものも、めっきり少なくなり、本はネットで購入するもの、あるいは電子書籍で読むものといった風潮が高まってきておりますが、それでもある程度人口の多い町には1件、2件の本屋さんが存在します。本屋に行くと本当にさまざまな本が置いてありますが、ここ数年来、目立つようになって来ているのが、一般向けの心理学関係の本や人間関係についての本です。私がまだ学生の頃は、心理学を扱った書物というものは、専門家向けの本しかありませんでした。また、人間関係の処方箋のような本もあまり見かけることはありませんでした。しかし、今では、そのような一般向けの何種類もの本が所狭しと置いてあります。今は、それだけ、人々が自分の内面というものに関心を持ち、また、人との関係を円滑にしていきたいという、そういった気持ちが強いのだろう、と思う反面、逆に言えば、それだけ、人々が自分というものが分からなくなってきていて、人間関係を作りにくい、そのような時代であることを象徴しているような気がします。
さて、今日は、先週に引き続き「クリスチャンの交わり」ということについて、エフェソの信徒の手紙から、主の御心に聞いてまいりたいと思います。クリスチャン同士の交わりというのは、単に人間関係だけを指すのではありません。確かに、クリスチャンと言っても人間同士ですから、そこには、人間関係が存在します。ですから、教会の中でもあの人とは、合うとか、あの人とは合わないとかいうようなことも現実のこととして起こり得ることですし、私たちは、真っ正直に自分自身のそのような心と向き合う必要もあるかと思います。
しかし、もし、クリスチャン同士の関わりというものが、人間関係ということだけに限定されるなら、それは、良いか、悪いか、ということだけになるでしょう。そして、お互いに、お互いの関係をそういったレベルでのみ、つまり、「合うか合わないか」、「人間関係がいいか悪いか」というレベルでのみで判断していくとしたならば、やがては、教会の中でグループ化が起こったり、特定の人しか教会にいることが出来なくなってしまったりいたします。しかし、それでは、神様が私たちに「教会」をお与えになった意味が全くなくなってしまいます。
イエス様の御心は、「信じる者たちがひとつとなる」、ということにありますから、その中で、分裂があったり、グループ分けがあったりすることは、教会のいのちを損なうことにもなってしまうのです。それでは、教会が真に生ける教会となるために、いのちあるものとなるために、必要なこととは何でしょうか。
パウロは、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。」と言っています。
私たちは、ここを読むと、すぐに「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」というところに目が行ってしまい、「ああ、そんなの無理かも?」という気持ちになってしまいます。しかし、パウロがここで、エフェソの教会の信徒たちに、一番に思い起こさせようとしているのは、冒頭の「あなたがたは、神から招かれた」という、その部分です。私たちは、招かれているのです。神の招きには、誰が先に、とか、誰が優先して、ということは一切ありません。神は全ての人を公平にお招きになられるお方だからです。
何に招かれているのかと申しますと、それは、神の子、イエス・キリストご自身との交わりに招かれているのであると同時に、同じ神を信じる者たちの交わりにです。その交わりとは、具体的に言えば、礼拝であり、信徒同士の交わりであり、祈りのときであり、そして、キリストの血による罪のゆるしに、です。
「交わり」というのは、単に「集会」という意味を持つものでも「人間関係」ということでもありません。聖書で言うところの「交わり」の言葉の語源は、「コイノニア」という言葉で、それには、もともと「与る」という意味があります。聖書では、「コイノニア」という言葉は、特に「キリストの体に与る」ということを言い表す場合によく用いられています。私たちはそれぞれ、イエス様の体を造り上げる部分部分として、そこに招かれ、参与させていただいているのです。ですから、私たちの交わりの中心には、いつもイエス様がおられます。そして、その交わりは、人間同士の好き嫌い、合う合わないということを遙かに越えたところにある交わりです。
私は、一度、不思議な体験をしたことがあります。まだ神学生の頃のお話ですが、ある教会で奉仕をしていたときに、どうしても気の合わない人がいました。悪い人ではないのですが、その人の言うこと一つ一つがどうしても気に障ると言いますか、言い方も少し横柄で、上からものを言われているような感じで嫌になったものです。ある日曜日、礼拝の中で聖餐式がありました。小さな教会でしたから、教会員が全員前に並んで聖餐を受けるのですが、配餐のとき、たまたまチラッと横を見ると、その人が頭(こうべ)をうなだれ、パンを受け取っているのが目に入ってきました。そのとき、不思議と、「ああ、この人もここに一緒にいるのだな」という気持ちが沸いてきて、何かしら嬉しい感じがしたのです。 そのときは、まだはっきりと「共に招かれている」という意識はありませんでしたが、「主が同じように赦しを与えてくださっているのだ」ということが何だか分かったような感じでした。そのときの経験は、ほんの短い間の一瞬の経験でしたが、今でも強い印象として目に焼きついています。だからといって、それで、その人のことが気にならなくなった、ということではありません。それからも、やはりその人の言うことに腹を立てることもありましたが、しかし、同じキリストに連なる者として、そこに、「共に居る」ということが大切なんだということを学ぶことが出来ました。
「そこに」というのは、神の招きの場です。教会であり、礼拝であり、聖餐であり、信徒の交わりの場であります。今、ここに、主が招いてくださっている。私たちが、共に、癒され、力を得るために…。そのように、私たちのうちに、神様から招かれている、という、その意識がある限り、私たちは、高ぶることができません。主の前では、私たちは、皆、同じように、頭(こうべ)を垂れるしかないのです。
私たちを招かれる主は、私たちを招かれるだけではなく、私たちを、それぞれの場へと遣わしてくださいます。以前にもお話ししたと思いますが、聖書が語るところの「教会」という言葉、それは、もともと「招かれ者たち」という意味の「エクレシア」という言葉です。もし、教会が招きの場であるとしたならば、私たちの家庭、私たちの職場、私たちの行くところ全ての場所は、神様の遣わされる場である、と言うことが出来ると思います。だから、私たちは、そこでもまた、高ぶることが出来ません。そこは、神様が遣わされた場所であるからです。
さらにパウロは、「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」と言います。招かれた場にしても、遣わされている場にしても、どちらにしても大切なことは何かと言いますと、それは、私たちが、平和を携えているかどうか、ということです。しかも、それは、キリストの平和です。
先程も述べましたように、私たちには、それぞれに気に入らない人もいれば、相性の合わない人もいます。しかし、だから平和が保てない、ということではないのです。私たちは、ともに同じ平和を神様から頂いて生きています。この平和、神様との平和を一人一人が持つときに、私たちは、どのような者同士であっても平和の中に交わりを持つことが出来るのです。逆に神との平和の中に生きていないときは、そこに本当の平和が生まれることはありません。
ですから、私たちは、一人一人、それぞれが、常に神様との平和の中にいることが大切なのです。それは、祈りによって、日々の悔い改めによって、そして、み言葉によって与えられる心の平安です。私たちは、この平安の中に生きるとき、どのような状況であろうと、また、どのような人に対しても柔和であることが出来、また、その人のしあわせ、その人の上にも主の祝福を願う者となるのです。
ここに、クリスチャンの交わりの奥深さがあります。そして、私たちが、そのような交わりの中に生きるときに、キリストの福音は、ただ心地の良い言葉としてではなく、実体としてこの世に伝えられて行くのです。主が私たちに賜ってくださった平和、神との平和が目に見えるものとして伝えられて行くのです。そして、そのために私たちに出来ること、それは、最初にも述べましたように、私たちは、皆、神様から招かれて共にいるのだ、という、その確信をみ言葉によって日々新たにさせていただくことだけであります。
<祈り>
主なる神様、この世を支配する悪は、私たちの心に忍び込み、お互いの間に分裂を引き起こそうとします。しかし、そのような悪の誘惑に対して、「私たちは皆、神によって招かれてイエス様に繋がる者たちです」と確信をもって宣言し、分裂や憎悪の誘惑を退けることができますよう、どうか、あなたの愛によって私たちを一つのものとならしめて下さいますようにと祈ります。尊い御子イエス様の御名によって、アーメン。
<信仰告白>(使徒信条)
天地の造り主、全能の父である神を、私は信じます。その独(ひと)り子、私たちの主、イエス・キリストを、私は信じます。主は、聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちから復活し、天に上(のぼ)られました。そして、全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とを、さばかれます。聖霊を、私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦(ゆる)し、身体(からだ)の復活、永遠の生命(いのち)を信じます。 アーメン
<讃 美 歌> 教会讃美歌271番
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<奉 献> ※今日の分の献金を捧げて、次回、主日礼拝に来られたときに一緒に捧げましょう。
<奉献の祈り>
あわれみ深い神よ。あなたは、私たちに、恵みと愛のしるしとして、私たちの思いを越えた多くの賜物(たまもの)を、日毎(ひごと)に備えてくださいます。私たちは、私たち自身と、賜(たまわ)ったすべてのものを、喜びと感謝をもって献(ささ)げます。私たちのために、ご自身を献(ささ)げられた、主イエス・キリストのゆえに、私たちの献(ささ)げるすべてを受け入れてください。あなたと聖霊とともに、とこしえに、ただ一人の神であり、世の終わりまで生きて治(おさ)められる御子(みこ)、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
<主の祈り>
天にいます われらの父よ。御名(みな)が崇(あが)められますように。
御国(みくに)が来ますように。御心(みこころ)が天に行われるとおり、地にも行われますように。
私たちの日毎(ひごと)の食物(しょくもつ)を今日もお与えください。
私たちに負債のある者を赦(ゆる)しましたように私たちの負債をもお赦(ゆる)しください。
私たちを試(こころ)みに遭(あ)わせないで、悪しき者からお救いください。
御国(みくに)も力も栄光もとこしえにあなたのものだからです。アーメン。
<頌 栄> 教会讃美歌501番 https://reihaidouga.blogspot.com ← 讃美歌BGM動画をご覧いただけます。
あめつち こぞりて、ほめたたえまつらん
恵(めぐ)みの み神を、 父、み子、み霊(たま)を アーメン。
<祝福の祈り>(2テサロニケ 3:16)
どうか平和の神ご自身が、いついかなる場合にも、私たちに平和をお与えくださるように、主が私たち一同とともにおられるように。アーメン。